セーラー服胸元が変更された

藤島高校の制服のセーラー服は、私が1年生の時は高志高校とまったく同じでした。胸元がVの字に開いた上衣に、黒いネクタイをしていました。現在の高志高校の胸元と同じです。
それが藤島高校の制服のセーラー服は、私が1年生の時に、藤島は胸元に横に2本の白線が入った胸当てをつけることになりました。理由を先生が伝えましたが、
「女子高生で悪いことをした者がいて、どちらの高校か解るようにするために制服を変えました。」
ということでした。藤島か高志のどちらの生徒が、何をしたのかは知らされませんでしたし、噂も流れませんでした。勾配に2本線の胸当てが売っていて、女生徒はそれを買って縫い付けたようです。しかしながらセーラー服の魅力が減りました。胸元に蓋をした感じで、なんとなくさわやかさが薄らぎました。
超難関高校だった藤島高校
そのころの藤島高校は列車や郊外バス・電車に乗り、また下宿をする生徒がたくさんいました。あちこちの郡市から生え抜きの生徒が合格してやって来たのでした。遠くは大野、武生、鹿浦、さすがに敦賀は知りませんが725人もいましたから、下宿の生徒はいたかも知れません。かなりの難関高校でした。
しかし記憶では東大合格は今より多いということはありませんでした。7~8人、時には10人ということでした。藤島のレベルが低いというより、東大が当時はるかに超難関大学だったのだと思います。今は東大は世界ではそう上位ではありません。
4当5落とは
当時学習塾などはなく、藤島高校から離れた東北側に教師を退職した先生の数学塾があるくらいでした。ほんの初歩を教える英語学校はポツポツとあったようです。
生徒はみんな自分でやる勉強のみでした。勉強法など出回っていません。雑誌の中に書いてある程度でした。とにかくやるだけです。1年生の同級生で、かなりの優秀な生徒に聞いたら、
「睡眠はいつも4時間。」
と言いました。そのころ”4当5落”という言葉があり、4時間寝るものは大学に合格し、5時間以上寝るものは落ちる、と言われました。ほんとうに4時間しか寝ないで勉強する生徒がいたのです。見ていると休み時間も全く休まずに何かを開いて向かっていました。彼は東大の政治学科のほうへ行きました。
睡眠8時間で東大工学部
いっぽう睡眠8時間の同級生がいて、彼は東大の工学部へ行きました。女生徒たちが
「すごい。」
と言い合っていたので、藤島高校ですごいを言われるのはおそらく全国模試で1番だったのではないかと思います。そのあと
「東大ね。」
と言った気もします。
彼は授業中、身動きもせず先生の話に耳を傾けています。ノートは話しの区切りのあたりで、わずかに取る程度でした。そして突然手を挙げて質問をします。内容は高度で、私には何を聞いているのかわかりませんでした
曖昧な教育行政
そして長男が藤島に入るときはおかしなことを始めました。教育委員会は他の郡市から藤島高校へは来れないようにし、さらに藤島と高志に合格者を振り分けてどちらへ行くかわからないようにしました。つまり合格後長男は高志に行っていたかも知れないのです。
言い出した当時の県の教育委員会は全部の高校を水準アップできると考えたのです。それで難関高校がなくなってしまいました。しばらくは高志がかなりレベルが高い高校になり、藤島に追いつくと言われたりしました。中には高志のほうが上だと言うものもいたのを記憶しています。東大にたくさんの合格者を出したときがありました。
他の湯名刺率を見ても、難関高校があるから生徒は勉学に奮闘しレベルが向上することを、誤って考えたのです。
ゆとり教育で災難
それから今度は文部省がおかしなことをやりました。次男が藤島のときです。“ゆとり教育”です。推測どおり小学生から高校生まで、漫画とゲーム三昧でした。次男の部屋も漫画とゲームの山です。
その間韓国では同級生がそうだったように睡眠を削って勉強に打ち込んでいたのです。その結果韓国はいち時、いくつかの分野で日本を追い抜きました。
この時の知名度はその後も世界に大きく躍進する良い材料になったことでしょう。
それまでは、衣類までもがなんだmade in korea かという粗悪品が多くありました。

何年か後に政府は慌てて、抜いていた勉強内容をごっそり元に戻しました。次男は薬学部に通いながら、独学で医学部を受け直すときに、習っていない内容がそのまま戻されたのです。試験には出ます。こういうことをやった当時の担当者は何の責任も取りません。
自分しかない
あなたは身の回りに従って勉強しているのでなく、世界を見据えて、自分で多くのことを蓄積していくことが必要と思います。